

帰宅してコートをハンガーに掛け、表面についたホコリをブラシで払います。肩から裾へ毛を動かすと布の上を毛先が通り、細かなチリや毛羽立ちが見えやすくなります。
江戸刷子は、東京都内で受け継がれてきた刷毛・ブラシ文化を指す名称です。大きく分けると「江戸刷毛」と「東京手植ブラシ」という、構造も用途も異なる二つの系統があります。
江戸刷毛は、表具、染色、木版画、漆塗りなど、職人の専門的な仕事に使われてきた平型の刷毛を指します。用途に合わせて馬毛、鹿毛、人毛などを使い分け、綴じ糸や竹釘などで毛を固定します。江戸刷毛は東京都指定伝統工芸品として受け継がれています。
一方、東京手植ブラシは、木製の台に開けた穴へ毛束を一束ずつ植え込むブラシです。細いワイヤーを使って毛束を二つ折りにし、木台の内部へ引き込んで固定する構造が特徴で、洋服ブラシ、ボディブラシ、清掃用ブラシなど、暮らしの道具に使われています。
江戸刷毛の発展には、江戸時代(1603〜1868年)の都市文化と専門職の広がりが深く関わっています。江戸では表具、着物の染色、木版印刷、建築塗装など多様な仕事が発達しました。
それぞれの作業は塗るものの粘度や塗布する面積、素材の状態が異なるため、一種類の刷毛ですべてをまかなうことはできません。そのため用途ごとに毛質や幅、形を調整した刷毛を仕立てる「刷毛師」が現れ、専門道具としての江戸刷毛が細分化されていきました。
享保17年(1732年)に刊行された『万金産業袋』にも刷毛づくりについての記述があり、江戸で専門的な刷毛づくりが行われていたことがうかがえます。
一方、現在の洋服ブラシなどにつながる東京手植ブラシは、江戸刷毛とは異なる経緯で発展しました。
明治時代(1868年〜)になると、西洋からヘアブラシや洋服ブラシといった新しい形のブラシが伝わります。そこへ江戸刷毛づくりの中で培われてきた毛の選別や仕立ての技術が応用され、木台へ毛束を植え込む手植ブラシがつくられるようになりました。
その後、機械製ブラシやプラスチック製品が広く普及する中でも、専門職向けの刷毛と手植ブラシの製作は続けられてきました。現在は表具や木版画、漆などに使う刷毛に加え、洋服、髪、デスク周りなどを整える日用品としても技術が展開されています。

江戸刷子には、馬毛、豚毛、山羊毛、鹿毛、人毛などさまざまな天然毛が使われています。
同じ動物の毛でも、部位や個体によって太さや硬さは異なります。たとえば馬毛は、尾毛、タテガミ、背毛では性質が同じではありません。職人は使う対象や求める働きに合わせて毛を選び、必要に応じて異なる毛を組み合わせます。
洋服ブラシは、比較的しなやかな馬毛を用いた製品がウールやカシミヤなどの衣類向けとして設計されることがあります。一方、コシのある豚毛を使った製品は厚手の生地や別の用途に選ばれることがあります。
天然毛には先端へ向かって細くなる毛があり、こうした自然な毛先は「命毛」と呼ばれます。洋服ブラシでは、この先細りした毛先が衣類の表面へ入り込み、表面についたホコリを払ったり毛並みを整えたりする働きに生かされています。
東京手植ブラシでは、木台に開けた穴へ細いワイヤーを通し、毛束の中央を折り返すようにして穴の中へ引き込み固定します。毛束を一束ずつ木台の内部で留めるため、機械製ブラシの一部で見られる金属プレートによる打ち込みや接着による固定とは構造が異なります。
手植えは毛束を木台の内部で締めるため、毛が抜けにくい構造にできることが特徴です。製品によっては、毛が摩耗したあとに植え直しへ対応できる場合があります。ただし、すべての手植ブラシが修理可能とは限りません。
平型の江戸刷毛と東京手植ブラシでは製法が異なります。ここでは、洋服ブラシなどに使われる東京手植ブラシの代表的な工程を紹介します。
1. 毛を選び、組み合わせる
用途に合わせて馬毛や豚毛などの毛を選ぶ。天然毛は同じ種類でも部位や一本ごとに太さ、硬さ、癖が異なるため、つくるブラシに必要な硬さや毛量を考えながら毛を選び、必要に応じて異なる毛を組み合わせて整える。
2. 木台に穴をあける
ブラシの土台となる木に毛を植えるための穴を開ける。穴の位置や間隔だけでなく、どの方向へ毛束を出すかによって完成したときの毛の広がり方も変わる。洋服用、ボディ用、清掃用など、用途に合った形を考えながら木台を整えていく。
3. ワイヤーで毛束を引き込む
東京手植ブラシを特徴づけるのが、この「手植え」の工程。
木台の穴へ細いステンレスや銅などのワイヤーを通し、毛束の中央を二つ折りにするようにして穴の内部へ引き込み固定する。強く引きすぎれば木台やワイヤーへ負担がかかり、弱ければ毛束を十分に固定できないため、毛量と木の状態を見ながら適切な力で一束ずつ植えていく。
4. 毛先の形を整える
植え終えた毛をブラシの用途に合わせて整える。必要に応じてハサミや刃物を使い、毛の高さや表面のカーブを調整する。毛材だけでなく、長さや密度、毛先の形まで含めて設計することで、それぞれの用途に合ったブラシになる。
5. 裏板を取り付け、木台を仕上げる
植毛を終えた木台には裏板を取り付け、内部のワイヤーが見えないように仕上げる。木台の表面を研磨し、製品に応じた仕上げを施して完成。
※平型の江戸刷毛は、毛を並べ、綴じ糸や竹釘などを使って固定するなど異なる方法でつくられます。
江戸刷毛と東京手植ブラシは、異なる用途で使われます。
表具刷毛、漆刷毛
掛け軸や屏風などを仕立てる表具の仕事で使われる表具刷毛と、漆を塗るためにつくられる漆刷毛があります。糊を塗る、紙や布を押さえる、空気を抜くなど工程によって必要な役割が異なるため、毛の硬さや刷毛の幅も用途に合わせてつくられます。
漆刷毛には人毛を用いるものがあり、漆を薄く均一に延ばす作業に合わせた構造を持ちます。
洋服ブラシ、ヘアブラシ
コート、ジャケット、ニットなどの表面についたホコリを払い、毛並みや毛羽立ちを整えるための洋服ブラシと、髪を梳かし整えるためのヘアブラシがあります。馬毛や豚毛などを使った製品があり、毛の硬さや長さ、密度も製品によって異なるため、使用する衣類や髪質、製品の用途によって選びます。
清掃用ブラシ
デスク、キーボード周辺、家具などのホコリを払うためにつくられるブラシ。対象物に合わせて毛材、大きさ、毛量などが変えられます。衣類用ブラシをそのまま掃除用として使うのではなく、それぞれの用途を想定した製品を選びます。
刷毛やブラシは、何かを大きく変える道具ではありません。着た服からホコリを払う。ニットの表面を整える。デスクにたまった細かなチリを取り除く。江戸刷子が受け継いできた「対象に合わせて毛と形を選ぶ」という考え方は、こうした小さな手入れにもつながっています。