

朝、パウダーブラシに粉を含ませ、頬の上を軽く滑らせます。穂先に向かって細くなる毛が肌に触れるとき、その感触には毛材だけでなく、一本の筆を形づくる工程が感じられます。
熊野筆は、広島県安芸郡熊野町で作られる筆の総称。化粧筆として世界的に広く知られていますが、そのルーツにあるのは書道筆のものづくりでした。書道筆、日本画や水彩、油彩などに使う画筆、そしてパウダーやチーク、アイシャドウ、ファンデーションなどに使う化粧筆まで、今では幅広い用途の筆が作られています。
熊野筆の伝統的な穂先づくりを特徴づけるのが、毛本来の細い先端を生かしながら形を整える技術です。毛先そのものを刃物で切りそろえて完成形を作るのではなく、毛の長さや位置を調整しながら穂先を形づくります。こうして毛先の細さを生かすことが、肌や紙に触れたときの感触にもつながります。
使われる毛材も一種類ではありません。山羊、灰リス、馬、イタチなどの天然毛に加え、PBTなどの合成繊維も用いられています。必要なコシや柔らかさ、粉や墨、絵の具の含み方などに応じて素材を選び分けることも、熊野筆のものづくりの一部です。
熊野筆の始まりは、江戸時代末期(1830〜1850年頃)にさかのぼるとされています。
山に囲まれた熊野町は耕地が限られており、農閑期には住民が奈良や紀州などへ出稼ぎに出ていました。その帰路で筆や墨を仕入れて行商したことが、筆産業の始まりにつながったと伝えられています。その後、奈良などで筆づくりの技術を学んだ人々が熊野へ技術を持ち帰り、町の中で筆の生産が広がっていきました。
大きな転機となったのが、明治時代の学校教育の普及です。1872年の学制発布以降、学校で習字が広く教えられるようになると、書道筆の需要が増加しました。熊野町では需要に応えるために工程ごとの分業が進み、町全体に筆づくりの生産基盤が形成されていきます。
その後、生活や教育の変化によって毛筆の需要が変わると、培われてきた技術は書道筆だけにとどまらず、画筆や化粧筆へと応用されました。毛を選び、組み合わせ、用途に合わせた穂先を作る技術を別の分野へ展開したことが、現在の熊野筆の幅広さにつながっています。
1975年には伝統的工芸品にも指定されました。現在では書や絵のための筆とともに、化粧筆も熊野を代表する製品の一つとなっています。伝統的な毛筆の技術を守るだけではなく、求められる用途に合わせて筆の形や素材を変えてきたことも熊野町の筆づくりの歴史を特徴づけています。

熊野筆を見るとき、まず注目したいのが穂先の作り方です。
伝統的な製法では毛本来の細い先端を生かすため、完成する穂先の先端を刃物で一律に切りそろえるのではなく、毛の長さを見極めながら形を整えていきます。代表的な工程の一つが「コマ入れ」です。底がくぼんだ木型であるコマに毛束を入れ、軽く振動を与えながら毛先の位置をそろえることで必要な形へと整えていきます。
工程や仕上げ方は筆の用途によって異なります。
穂先を形づくる前にも、多くの判断があります。「選毛」では曲がった毛や傷んだ毛などを取り除き、用途に合った毛を選びます。また「練り混ぜ」では、水を使いながら性質の異なる毛を均一に混ぜ合わせます。毛は一本ずつ太さや硬さが異なるため、混ざり方や密度の偏りを指先で確かめながら整えていくことが求められます。
こうした毛材の組み合わせは筆の使い心地にも関わります。化粧筆であれば、粉の含み方やぼかしやすさ、肌に触れたときの感触。書道筆や画筆であれば、墨や絵の具の含み方、穂先のコシや線の出方など、求められる機能は用途によって異なります。
使われる素材にも、それぞれ異なる性質があります。山羊や灰リス、馬、イタチなどの天然毛に加え、現在ではPBTなどの合成繊維や天然毛と合成繊維を組み合わせた筆も作られています。天然毛はパウダー系の化粧品に使われる筆で選ばれることがある一方、合成繊維はリキッド系の化粧品や、洗いやすさを重視する製品で使われます。実際の使い心地や適した用途は、毛材だけではなく毛量、穂先の形、密度、製品設計によっても変わります。
熊野筆を選ぶときは、天然毛か合成繊維か、どの動物の毛かといった素材だけで判断するのではなく、何に使う筆なのか、そのためにどのような穂先と毛の組み合わせが設計されているのかを見ることが、一本の筆を理解する手がかりになります。
熊野筆づくりの工程や仕上げ方は、筆の種類や製品によって異なりますが、ここでは伝統的な穂先づくりの代表的な流れを紹介します。
1. 毛を選び、整える
原毛から曲がった毛や傷んだ毛などを取り除き、用途に合わせて毛の長さや性質を整える(選毛)。天然毛は同じ種類でも一本ごとに太さや硬さ、毛先の状態が異なるため、どの毛を残し、どの毛を取り除くかを見極めることがその後の穂先づくりの土台になる。
製品によっては、籾殻の灰などを使って毛の脂分を取り除き、毛を伸ばして整える工程も行われる。
2. 必要な長さを整え、不要な毛を取り除く
つくる筆に必要な長さへ原毛を整える「寸切り」を行う。その後、金ぐしなどを使い、産毛や逆さ毛など穂先に不要な毛を繰り返し取り除く。
3. 練り混ぜをする
用途に応じて複数の毛を使う場合は、水を加えながら毛を均一に混ぜ合わせる。毛の硬さや太さが一か所へ偏らないよう毛束を繰り返し広げ、重ねながら整えていく。
4. コマを使って穂先を形づくる
整えた毛束を、底がくぼんだ木型「コマ」に入れる。指先でコマへ振動を与えながら毛を動かし、毛本来の細い先端を生かして丸型や平型など目的とする穂先の形へ整えていく。毛の太さや湿り具合によって動き方が変わるため、毛束の状態を見ながら力の加え方を調整する技術が必要とされる。
5. 糸で締め、軸へ組み付ける
形が整った穂先は根元を糸で縛って固定する。その後、竹や木、樹脂などの軸や金具へ取り付け、用途に応じて仕上げる。最後に穂先や全体の状態を確認し、一本の筆が完成する。
熊野筆にはまず用途による違いがあり、さらに、それぞれの筆で使われる毛材にも複数の選択肢があります。「山羊毛だからパウダーブラシ」「合成繊維だからファンデーションブラシ」と固定して考えるのではなく、穂先の形や毛量、密度などを含めて製品ごとに見ることが大切です。
天然毛
熊野筆には山羊、灰リス、馬、イタチなど、さまざまな天然毛が使われます。
山羊毛には適度なコシを持つものがあり、灰リス毛には細く柔らかなものがあります。ただし、同じ動物種でも部位や毛質、製品設計によって使用感は異なります。毛材の種類だけを品質の順位として見るのではなく、どの用途の筆として設計されているかで判断しましょう。
合成繊維
PBTなどの合成繊維を単独で使った筆や、天然毛と組み合わせた筆もつくられています。
水分を含む化粧品に使う筆や、洗浄のしやすさを考慮した製品で選ばれることがあります。天然毛より下位の素材というわけではなく、求める使い方に応じた選択肢の一つです。
「塗る」「描く」「整える」という日常の動作の中で使うと、同じ熊野筆でも用途ごとに穂先へ求められている役割の違いが見えてきます。